これまでクンユアムという名前を聞いたことがなかった。メーホンソンへ旅行しようと思った時、ネットやYoutubeで検索して、この町のことを知った。ミャンマーとの国境にある田舎町にタイ日友好記念館があるというのだ。
メーホンソンからクンユアムへは毎日ソンテウが出ているらしい。でも本数が限られているので、日帰りするのは難しい。やはりバイクで向かうことにしたが、約70㎞ほど離れているので、往復150㎞はバイクの一日走行距離としては最高記録になりそうだ。でも108号線の一本道なので、道に迷うことはない。
朝のメーホンソンは、バーンラックタイほどではないが、やはり寒い。でも景色はきれいで車も少ないので気持ちがいい。ちょうど20㎞弱のところにビューポイントがあり、休憩してコーヒーを飲んだ。
周りに何もない道路わきに、小さな祠と塔がぽつんと立っていた。私はGoogle Mapで場所を確認しながらゆっくり走ったので見つけることができたが、もし車で走っていたら気づかないのではないかと思った。
いつ供えられたかわからないが、お線香、お酒、水が残っていた。私も、ふとお線香を持ってこれればよかったのにと思ったが、新しいペットボトルの水だけを供えて、この地で亡くなった日本人の方に祈りをささげた。
そしてようやくクンユアムの町に到着。ちょうど町のまん中あたりだろうか、108号線に面してタイ日記念友好館があった。
ここでももう1本の水をお供えして祈った。碑の下にあるのは、ここの設立援助をした方たちの名前。タイ政府や日本政府は関係がなく、いろいろな団体や個人が協力されたそうだ。
記念館の中の説明は、タイ語、英語、日本語がある。よく整理されていて見やすかった。ただ、誤訳と思えるものもあったけれど。
館内にはビデオ室があり、当時の様子を説明した再現ビデオのようだった。第2次世界大戦時、クンユアムへ道路建設のためにやってきた日本兵、インパール作戦の失敗で戻ってきた日本兵、当時かなりの日本兵がこのクンユアムへ滞在し、現地の人々との温かい交流があったそうだ。.
タイ人女性と恋に落ち、結婚して子供までできたのに、軍の命令で日本へ帰らされた兵士もいたそうだ。帰国を待つ間に、自分たちの持ち物を食料と交換してもらったり、また村の仕事をすることで食料をもらったりと、言葉が通じなかったはずなのに、村人たちは日本兵にとても好意的で、それに対して日本兵も精一杯の誠意を返したにちがいない。だからその逸話がこうして記念館として残っているのだろう。
このタイ日友好記念館は、ある一人のタイ人の方によって作られたそうだ。1995年にクンユアム警察に署長として来られたチェーチャイ・チョムタワット氏が、クンユアムの村人たちの家の多くが、日本兵の遺品を持っていることに気づいて、村人に話を聞いて回ったそうだ。クンユアムの村人と日本兵の絆を記録に残したいと、その遺品を提供してもらって作ったのがこの記念館だとのこと。
ネットで検索すると、この方に関するサイトが見つかった。本も出しておられ、たまたまKindle Unlimitedに入っていたので、それも読んでみた。この方がクンユアムに来られなかったら、クンユアムと日本の関係は、知られずに埋もれてしまったかもしれない。
記念館の写真はあまり撮っていなかった。読むのに必死だったためだと思う。古いお守りもあって、中に「大阪天満宮」のものがあり、大阪の人もこの地におられたんだと不思議な気持ちになった。
クンユアムには、この他にも日本人ゆかりのところがある。ちょっと長くなったので、続きは次回に回したい。
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メーホンソンからクンユアムへは毎日ソンテウが出ているらしい。でも本数が限られているので、日帰りするのは難しい。やはりバイクで向かうことにしたが、約70㎞ほど離れているので、往復150㎞はバイクの一日走行距離としては最高記録になりそうだ。でも108号線の一本道なので、道に迷うことはない。
朝のメーホンソンは、バーンラックタイほどではないが、やはり寒い。でも景色はきれいで車も少ないので気持ちがいい。ちょうど20㎞弱のところにビューポイントがあり、休憩してコーヒーを飲んだ。
バイクで行こうと思った理由はもうひとつある。なぜかわからないが、メーホンソンから40㎞ほどのところに、日本人のための慰霊碑があるというのだ。
周りに何もない道路わきに、小さな祠と塔がぽつんと立っていた。私はGoogle Mapで場所を確認しながらゆっくり走ったので見つけることができたが、もし車で走っていたら気づかないのではないかと思った。
いつ供えられたかわからないが、お線香、お酒、水が残っていた。私も、ふとお線香を持ってこれればよかったのにと思ったが、新しいペットボトルの水だけを供えて、この地で亡くなった日本人の方に祈りをささげた。
そしてようやくクンユアムの町に到着。ちょうど町のまん中あたりだろうか、108号線に面してタイ日記念友好館があった。
ここでももう1本の水をお供えして祈った。碑の下にあるのは、ここの設立援助をした方たちの名前。タイ政府や日本政府は関係がなく、いろいろな団体や個人が協力されたそうだ。
記念館の中の説明は、タイ語、英語、日本語がある。よく整理されていて見やすかった。ただ、誤訳と思えるものもあったけれど。
館内にはビデオ室があり、当時の様子を説明した再現ビデオのようだった。第2次世界大戦時、クンユアムへ道路建設のためにやってきた日本兵、インパール作戦の失敗で戻ってきた日本兵、当時かなりの日本兵がこのクンユアムへ滞在し、現地の人々との温かい交流があったそうだ。.
タイ人女性と恋に落ち、結婚して子供までできたのに、軍の命令で日本へ帰らされた兵士もいたそうだ。帰国を待つ間に、自分たちの持ち物を食料と交換してもらったり、また村の仕事をすることで食料をもらったりと、言葉が通じなかったはずなのに、村人たちは日本兵にとても好意的で、それに対して日本兵も精一杯の誠意を返したにちがいない。だからその逸話がこうして記念館として残っているのだろう。
このタイ日友好記念館は、ある一人のタイ人の方によって作られたそうだ。1995年にクンユアム警察に署長として来られたチェーチャイ・チョムタワット氏が、クンユアムの村人たちの家の多くが、日本兵の遺品を持っていることに気づいて、村人に話を聞いて回ったそうだ。クンユアムの村人と日本兵の絆を記録に残したいと、その遺品を提供してもらって作ったのがこの記念館だとのこと。
ネットで検索すると、この方に関するサイトが見つかった。本も出しておられ、たまたまKindle Unlimitedに入っていたので、それも読んでみた。この方がクンユアムに来られなかったら、クンユアムと日本の関係は、知られずに埋もれてしまったかもしれない。
記念館の写真はあまり撮っていなかった。読むのに必死だったためだと思う。古いお守りもあって、中に「大阪天満宮」のものがあり、大阪の人もこの地におられたんだと不思議な気持ちになった。
クンユアムには、この他にも日本人ゆかりのところがある。ちょっと長くなったので、続きは次回に回したい。
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国家の犯罪の悲惨な犠牲者になった同胞のみならず、一緒に行軍し、散華したタイ人の青年たち、兵站を確保することなく行軍した日本軍が道中、現地人から大量の食料を強制調達したために餓死した方々、現地人女性への不遜な行動、、ここには書けないことの数々に鑑み、日本の為政者は、毎年この地を訪れ、懺悔し、不戦の誓いをすべきかと。(このままでは逆に美化され、日本の国家犯罪が埋没してしまいます。)
nakko
がしました