ナムロート洞窟の午後ツアーは、洞窟だけでなくその後ドーイキィウロムという展望台とモーペーン滝へ行くことになっていたようだ。というのは、私はナムロート洞窟だけが目的だったので、詳細を知らなかったのだ。しかもツアー代はたった350バーツなので、他もあると思わなかった。
もうかなり日が落ちかけた頃モーペーン滝へ到着。ここはパーイの中心から10㎞弱のところだ。でもコロナ以降整備がされなくなったようで、この木の橋は朽ちて通れなくなっていた。しかも乾季なので、滝というほど水もない。
ファランカップルの一人が岩を登り始めた
これもツアーで来てよかった。一人だとここまで来れても、岩を登ることは考えなかったかもしれない。本当にお買い得なツアーだった。ホテルに戻るともう7時半近かったので、6時間以上もかかったのに350バーツと洞窟で200バーツ。到着日としては大満足な半日となった。
このブログランキングに参加しています。
もしよろしければ、ポチっとしていただければ、励みになります
ファランカップルたちと私はゆっくり食事をしたので、洞窟を出発したのはもう4時半ごろだった。私はまた助手席に乗せてもらった。
実はこのおじさんとの会話がとても面白かったのだ。年齢はもう71歳。でも運転は無茶はせず、カーブも上手に曲がっていく。横に乗っていても全然怖くなかった。私が日本人だと知ると、こんな話をしてくれた。
「この近くに日本人の息子がいるよ。でも日本語は話せないけどね。」
「お父さんは、ミャンマーへ戦争に行った人ですか?」
「そうらしい。モン族の人と結婚して、日本へ帰らなかった。モン語とタイ語を話してたから、日本語を話すのを聞いたことがない。」
「よく知っている人なんですか?」
「昔だよ。もうずいぶん前に亡くなったから。」
クンユアムで見た地図を思い出した。そう、クンユアムからパーイを通ってチェンマイへ行くのが北部站線という道だった。その中で亡くなった人もいれば、病気やけがで置いて行かれた人もいるだろう。このおじさんの知り合いの日本人がどういう経緯でモン族の女性と結婚したかわからないが、日本へ一度も帰らなかったのだろうか。
たまたま出会った運転手のおじさんに、こんな知り合いがいるということは、本当はかなりの日本人兵士の生き残りがメーホンソンで一生を終えたのじゃないかと思えてくる。でも部隊を離れた以上、簡単に身元を明かすわけにいかなかったかもしれない。メーホンソンの友好館のビデオにあった夫婦は、夫は無理やり日本へ返されたとのことだった。
おじさんと往復でいろいろな話を聞かせてもらい感謝。そして夕日がきれいなこの場所でおじさんが私の写真を撮ってくれた。
実はこのおじさんとの会話がとても面白かったのだ。年齢はもう71歳。でも運転は無茶はせず、カーブも上手に曲がっていく。横に乗っていても全然怖くなかった。私が日本人だと知ると、こんな話をしてくれた。
「この近くに日本人の息子がいるよ。でも日本語は話せないけどね。」
「お父さんは、ミャンマーへ戦争に行った人ですか?」
「そうらしい。モン族の人と結婚して、日本へ帰らなかった。モン語とタイ語を話してたから、日本語を話すのを聞いたことがない。」
「よく知っている人なんですか?」
「昔だよ。もうずいぶん前に亡くなったから。」
クンユアムで見た地図を思い出した。そう、クンユアムからパーイを通ってチェンマイへ行くのが北部站線という道だった。その中で亡くなった人もいれば、病気やけがで置いて行かれた人もいるだろう。このおじさんの知り合いの日本人がどういう経緯でモン族の女性と結婚したかわからないが、日本へ一度も帰らなかったのだろうか。
たまたま出会った運転手のおじさんに、こんな知り合いがいるということは、本当はかなりの日本人兵士の生き残りがメーホンソンで一生を終えたのじゃないかと思えてくる。でも部隊を離れた以上、簡単に身元を明かすわけにいかなかったかもしれない。メーホンソンの友好館のビデオにあった夫婦は、夫は無理やり日本へ返されたとのことだった。
おじさんと往復でいろいろな話を聞かせてもらい感謝。そして夕日がきれいなこの場所でおじさんが私の写真を撮ってくれた。
もうかなり日が落ちかけた頃モーペーン滝へ到着。ここはパーイの中心から10㎞弱のところだ。でもコロナ以降整備がされなくなったようで、この木の橋は朽ちて通れなくなっていた。しかも乾季なので、滝というほど水もない。
ファランカップルの一人が岩を登り始めた
結局、男性陣が女性を少し補助しながら全員が登ることになった。でも実は私は、一人で登り切った。ちゃんと運動靴も履いていたから。降りる時も、全然平気だった。
上から見た様子
このブログランキングに参加しています。
もしよろしければ、ポチっとしていただければ、励みになります

コメント
コメント一覧 (4)
ところで、ラオスはCIAが遂行したSecret Warで悲惨な運命に翻弄されました。
ラオスには第二次大戦で使用された総量以上の爆弾が投下されたそうです。(ビエンチャンの戦争資料館による)極めつけは、米人兵士に代わりモン族(Hmong)を戦闘に投入したことです。7~8歳くらいの少年まで銃器を持たされ惨劇の場に送り込まれたそうです。
サイゴン陥落後は、モン族の多く(米軍協力者。数十万人?)が国外脱出を余儀なくされました。アメリカにも多数が移住しましたが、待っていたのは苛烈な生活のようです。
アメリカには贖罪意識のかけらもないのでしょうか?逆に、クリント・イーストウッドのように、そうした方々との「心温まる交流」を描いて誤魔化そうとするのでしょうか?
nakko
が
しました
さすが身体能力高いNakkoさん、岩場も楽々ですね!
しかし運転手のおじさんが、旧日本兵の子供さんを知っていたとは…。というか、そういうケースは書かれている通り、結構あったのかなあ。日本人の性格的には絶対アリですよね。南洋の島で何十年も密林に潜んあと帰国された横井さんとかいらっしゃいましたが、タイやミャンマーで現地の方と結婚して一生を終えた方の方が幸せだったんでしょうか…"(-""-)"。
nakko
が
しました