タイにいる間、この時期に日本へ帰ることがなかったので、5年ぶりに今日1月17日が阪神大震災のあった日だということを実感した。だから震災のことを書いてみようと思う。
私の家は大阪北部だが、あの日の衝撃は凄まじかった。まだベッドにいたが、ベッドの下から巨大な何かが当たったように感じた。隣の2段ベッド上段の長女を降ろそうとしたが、私は立ち上がれず、夫が何とか抱き降ろした。太っ腹の次女は目を覚さなかった。
朝食中にもう一度大きな余震があったが、我が家はまだ新築5年ほどで、大きな被害は見られなかった。だからいつも通り出勤した。学校に着く直前で会った生徒が、「先生、今日休みになってんで」と言った。
学校はすでに大騒動だった。いくつかの教室の窓が割れ、生物準備室にあった水槽も割れていた。始業時間に間に合った教員は半分ほどで、管理職が連絡を取れない同僚もいた。
私は4階にある図書館を片付けた。幸い窓ガラスは割れていなかったが、床は本で埋まっていた。作り付けでない本棚は全て倒れていた。何とか昼頃にはメドがつき、職員室に戻ってニュースを見て、神戸の悲惨な状況に驚いた。
幸い私の勤務校は被害も少なく、翌日からは平常授業を行うことができた。でも生徒の中には、家の片付けで数日来れない子もいた。近くの高校は被害が大きく1週間休校になった。
午後早い目に帰宅したが、テレビのニュースをつけていると、どんどん死者が増えていき、信じられないような光景が映った。当時、私の小学校からの親友が甲子園に住んでいて、朝から電話が通じなかった。神戸から少し離れているが、安否がわからないことに不安がつのる。彼女の実家も伊丹市で電話は通じなかった。
震災から3日目の朝7時ごろに電話をするとようやく繋がった。幸い彼女の家族は無事だったが、ライフラインが全て止まっているとのこと。当時彼女は妊娠中だった。
「電車は甲子園まで行けるんだよね。迎えにいくから、みんな一緒にうちに来て。」
ご主人は三宮にある銀行で働いていて、大阪北部の我が家から通うのは大変なので、とりあえず友人と娘さんだけが来ることになった。
その日、午前中に仕事を済ませて、午後に休暇を取って彼女の元へ向かった。阪神甲子園駅は大きな被害は見られなかったが、駅からの景色は悲惨だった。かなりの家が倒壊し、道もひび割れていた。彼女の住むハイツの前は大きな公園で、そこには既にたくさんのテントがたてられていた。
毎日そこに給水車が来ると言う。でも彼女は妊娠中で一度に重い水を運べないし、娘さんもまだ5歳だ。
「でもここに新築で入ったから、倒壊しなかっただけでもラッキーだったよ。」
「そうだよね、それにみんな怪我もしなかったし。」
でも娘さんは、友人にピッタリくっついて離れない。やはり地震の恐怖が抜けないのだろう。
友人の住む地域は、それからすぐにライフラインも復旧したので、友人たちも日曜の夜に帰っていった。
その年、彼女は元気な男の子を産み、その子も立派な大人になった。地震を怖がって、うちに来てからも泣いていた女の子も、結婚してもうすぐお母さんになる。あの時、私の友人家族が無事でよかった。
でもこの震災で6000人以上の人が亡くなっている。直接の知り合いはいなかったが、知人の知人を辿っていくと、やはり亡くなった方の家族にいきあたる。今日も神戸では慰霊祭が行われているが、28年間でその家族の方たちの心は、少しは癒されたのだろうか。
今日のニュースはかなり震災のことを取り上げていたが、震災の被害者の方々も高齢化し、震災を全く知らない世代が増えているが、この記憶を風化させてはいけないと言っていた。本当にその通りだと思う。
震災後、毎年1月は非常持ち出し袋の点検をしていた。私がいない間、次女が帰国した4年前に中身を点検してくれたそうだが、そのままになっていた。でも帰国直後に点検し、入れなおしたので(これは防災シューズを送ってくれた次女の命令があったからだが)、今月はその必要はない。でも1月に点検するのは、毎年やろうと思う。
さて話は変わるが、今日は母を連れて父のお墓参りへ行った。春のお彼岸はタイにいるので、そのお詫びをお墓でしておこうと思ったからだ。先週よりかなり寒くなったものの、天気がいいので、お墓参りから帰ったあと、運動のために、実家から母の住む市の大きな駅まで歩いていった。往復だと3㎞弱あるのだが、お昼ご飯で1時間ほど休憩したので、母も疲れたといながらも歩いた。人間歩けなくなると一気に弱るので、いつも車ばかり使わず歩いてもらわなくてはと思う。
私の家は大阪北部だが、あの日の衝撃は凄まじかった。まだベッドにいたが、ベッドの下から巨大な何かが当たったように感じた。隣の2段ベッド上段の長女を降ろそうとしたが、私は立ち上がれず、夫が何とか抱き降ろした。太っ腹の次女は目を覚さなかった。
朝食中にもう一度大きな余震があったが、我が家はまだ新築5年ほどで、大きな被害は見られなかった。だからいつも通り出勤した。学校に着く直前で会った生徒が、「先生、今日休みになってんで」と言った。
学校はすでに大騒動だった。いくつかの教室の窓が割れ、生物準備室にあった水槽も割れていた。始業時間に間に合った教員は半分ほどで、管理職が連絡を取れない同僚もいた。
私は4階にある図書館を片付けた。幸い窓ガラスは割れていなかったが、床は本で埋まっていた。作り付けでない本棚は全て倒れていた。何とか昼頃にはメドがつき、職員室に戻ってニュースを見て、神戸の悲惨な状況に驚いた。
幸い私の勤務校は被害も少なく、翌日からは平常授業を行うことができた。でも生徒の中には、家の片付けで数日来れない子もいた。近くの高校は被害が大きく1週間休校になった。
午後早い目に帰宅したが、テレビのニュースをつけていると、どんどん死者が増えていき、信じられないような光景が映った。当時、私の小学校からの親友が甲子園に住んでいて、朝から電話が通じなかった。神戸から少し離れているが、安否がわからないことに不安がつのる。彼女の実家も伊丹市で電話は通じなかった。
震災から3日目の朝7時ごろに電話をするとようやく繋がった。幸い彼女の家族は無事だったが、ライフラインが全て止まっているとのこと。当時彼女は妊娠中だった。
「電車は甲子園まで行けるんだよね。迎えにいくから、みんな一緒にうちに来て。」
ご主人は三宮にある銀行で働いていて、大阪北部の我が家から通うのは大変なので、とりあえず友人と娘さんだけが来ることになった。
その日、午前中に仕事を済ませて、午後に休暇を取って彼女の元へ向かった。阪神甲子園駅は大きな被害は見られなかったが、駅からの景色は悲惨だった。かなりの家が倒壊し、道もひび割れていた。彼女の住むハイツの前は大きな公園で、そこには既にたくさんのテントがたてられていた。
「でもここに新築で入ったから、倒壊しなかっただけでもラッキーだったよ。」
「そうだよね、それにみんな怪我もしなかったし。」
でも娘さんは、友人にピッタリくっついて離れない。やはり地震の恐怖が抜けないのだろう。
友人の住む地域は、それからすぐにライフラインも復旧したので、友人たちも日曜の夜に帰っていった。
その年、彼女は元気な男の子を産み、その子も立派な大人になった。地震を怖がって、うちに来てからも泣いていた女の子も、結婚してもうすぐお母さんになる。あの時、私の友人家族が無事でよかった。
でもこの震災で6000人以上の人が亡くなっている。直接の知り合いはいなかったが、知人の知人を辿っていくと、やはり亡くなった方の家族にいきあたる。今日も神戸では慰霊祭が行われているが、28年間でその家族の方たちの心は、少しは癒されたのだろうか。
今日のニュースはかなり震災のことを取り上げていたが、震災の被害者の方々も高齢化し、震災を全く知らない世代が増えているが、この記憶を風化させてはいけないと言っていた。本当にその通りだと思う。
震災後、毎年1月は非常持ち出し袋の点検をしていた。私がいない間、次女が帰国した4年前に中身を点検してくれたそうだが、そのままになっていた。でも帰国直後に点検し、入れなおしたので(これは防災シューズを送ってくれた次女の命令があったからだが)、今月はその必要はない。でも1月に点検するのは、毎年やろうと思う。
さて話は変わるが、今日は母を連れて父のお墓参りへ行った。春のお彼岸はタイにいるので、そのお詫びをお墓でしておこうと思ったからだ。先週よりかなり寒くなったものの、天気がいいので、お墓参りから帰ったあと、運動のために、実家から母の住む市の大きな駅まで歩いていった。往復だと3㎞弱あるのだが、お昼ご飯で1時間ほど休憩したので、母も疲れたといながらも歩いた。人間歩けなくなると一気に弱るので、いつも車ばかり使わず歩いてもらわなくてはと思う。
私が食べたチーズとアボガドのカレードリア
美味しかったけど、もう少し辛い方がよかったなあ
母はロースかつ(カツの厚みは2㎝もあった)
私が一切れもらっただけで、母はこれを完食(ご飯は1/3ほどしかたべていないけど)
まあお肉は好きな人だけど、まさか完食するとは思わなかった
年をとってもお肉をたくさん食べられる人は元気らしい
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コメント
コメント一覧 (4)
最近の週刊誌ではシニア向けの健康維持の特集が連載されていますが、共通して指摘されているのは肉食の重要性です。(老人こそ肉を食べるべきと。エネルギーに満ち溢れていた瀬戸内晴美さんも最期までステーキをペロリだったとか。)
それから、老人に謙虚さを期待するのは無理です。器質的に幼児返りを続けていきますので、ますます「わがまま、偏狭、自己中、それでいてプライドだけは一人前」は昂進します。「学習」は不可能です。
なお、唯一ありうるのは若い男の子(若い女性)と接することだとは皆がうなずくところです。(手を握ったり、その他皮膚接触するだけで驚くほど精神が安定し、前向きになるそうです。瀬戸内晴美さんの場合もステーキとこちらのダブル効果だったのかもしれません。)
nakko
がしました
実は阪神淡路大震災の時はもうタイにいて、まだNHKなどに加入していなかった(日本の新聞もとってなかった)し、今のようにネットでニュースが見られる時代ではなかったため、被害状況などについて知ったのはだいぶ後でした。毎年この日にラジオなどで当時の状況の追悼をするのを聞くにつけても大変なことだったんだと思い知らされます。まずはNakkoさんご一家やお友達がご無事でよかったです。
チーズとアボガドのドリア!私もそれを選んじゃいます(^^)/。お母様がこんな大きなカツをほぼ完食というのはすごいですね~(#^^#)!
nakko
がしました