「バルカン半島はヨーロッパの火薬庫」だと、はるか昔の受験勉強のときに学んだ記憶がある。でもバックパッカーをしていた頃は、ビザも必要で、旅行には向いていないと判断し、バルカン半島がどこなのかも意識から消えていた。でも今回の旅で、ユーゴスラヴィア紛争について、少し学ぶことができた。。
簡単な歴史は以下。
・第1次世界対戦後、セルビアを中心に南スラブ系の民族を統合して、ユーゴスラヴィア王国が成立
・第2次世界対戦中、ドイツの侵攻を受けて消滅
・1945年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を建国
・1991年から分離独立が始まり、2006年に消滅
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、セルビア社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国から出来ていた。またセルビアには、ヴォイヴォディナ社会主義自治州と、コソボ社会主義自治州という独立した地域もあった。
ユーゴスラヴィアは、7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア)と接していて、6つの国があり、5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、ムスリム人)がいて、4つの言葉(セルビア語、クロアチア語、マケドニア語、スロベニア語)があって、3つの宗教(カトリック、正教、イスラム教)があって、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)が使われている複雑な国として知られていた。
これほど複雑な国なのに、カリスマ性のあるチトー大統領が存命中は、問題もうまく処理されていたようだ。しかし彼の死後、コソボが独立を宣言したもののセルビアは認めず、紛争となった。豊かだったスロベニアとクロアチアも、自分たちのお金が、貧しい国に使われるのを不服とし、1991年、同時に独立を宣言した。でもすぐにユーゴスラヴィア連邦軍が攻めてきて、ユーゴスラヴィア紛争になった。
スロベニアはクロアチアが間にあり、しかもヨーロッパ諸国にアピールをして、わずか10日で紛争が終えることができた。でもクロアチアは、セルビア人も多く住んでいて独立を反対したので、紛争は4年続いた。マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロが独立し、コソボも独立を宣言し(まだ認めていない国も多い)完全にユーゴスラヴィアは消滅しました。
受験の世界史はせいぜい第2次世界対戦後までしか勉強していないので、ユーゴスラヴィア紛争については、ほとんど知らなかった。旅の最後の目的地であるドブロブニクは、その紛争で大きな被害を受けた場所だ。そしてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロと国境を接しているので、簡単に行くことができる。それでボスニア・ヘルツェゴビナに行ってみたいと思った。
ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで、冬季オリンピックが開かれたのは、1984年のこと。伊藤みどりが出場できなかったオリンピックだが、まだ幼い長女がフィギュアの放送を見て、足をあげて真似をしていたことを覚えている。
でもその直後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、オリンピックの会場は廃墟と化したというニュースを見て、ショックを受けた。それが私が初めてボスニア・ヘルツェゴビナという国を意識したときだった。
サラエボはかなり離れているので無理だったが、モスタールという町を訪れるツアーに参加した。そのことはまた次回にでも書くつもりだが、私が娘たちを生んで、日常生活だけを考えて暮らしていた頃、旧ユーゴスラヴィアでは、同じ民族でさえ争っていたのだと思うと、本当になんと言っていいのかわからない。
なんかまとまりのない文章になり、すみません。まだまだ勉強不足を実感しています。せめてきれいな花を見て、穏やかな気持ちになりたいです。
簡単な歴史は以下。
・第1次世界対戦後、セルビアを中心に南スラブ系の民族を統合して、ユーゴスラヴィア王国が成立
・第2次世界対戦中、ドイツの侵攻を受けて消滅
・1945年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を建国
・1991年から分離独立が始まり、2006年に消滅
ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、セルビア社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国から出来ていた。またセルビアには、ヴォイヴォディナ社会主義自治州と、コソボ社会主義自治州という独立した地域もあった。
ユーゴスラヴィアは、7つの国(イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシャ、アルバニア)と接していて、6つの国があり、5つの民族(セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、ムスリム人)がいて、4つの言葉(セルビア語、クロアチア語、マケドニア語、スロベニア語)があって、3つの宗教(カトリック、正教、イスラム教)があって、2つの文字(ラテン文字、キリル文字)が使われている複雑な国として知られていた。
これほど複雑な国なのに、カリスマ性のあるチトー大統領が存命中は、問題もうまく処理されていたようだ。しかし彼の死後、コソボが独立を宣言したもののセルビアは認めず、紛争となった。豊かだったスロベニアとクロアチアも、自分たちのお金が、貧しい国に使われるのを不服とし、1991年、同時に独立を宣言した。でもすぐにユーゴスラヴィア連邦軍が攻めてきて、ユーゴスラヴィア紛争になった。
スロベニアはクロアチアが間にあり、しかもヨーロッパ諸国にアピールをして、わずか10日で紛争が終えることができた。でもクロアチアは、セルビア人も多く住んでいて独立を反対したので、紛争は4年続いた。マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロが独立し、コソボも独立を宣言し(まだ認めていない国も多い)完全にユーゴスラヴィアは消滅しました。
受験の世界史はせいぜい第2次世界対戦後までしか勉強していないので、ユーゴスラヴィア紛争については、ほとんど知らなかった。旅の最後の目的地であるドブロブニクは、その紛争で大きな被害を受けた場所だ。そしてボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロと国境を接しているので、簡単に行くことができる。それでボスニア・ヘルツェゴビナに行ってみたいと思った。
ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで、冬季オリンピックが開かれたのは、1984年のこと。伊藤みどりが出場できなかったオリンピックだが、まだ幼い長女がフィギュアの放送を見て、足をあげて真似をしていたことを覚えている。
でもその直後、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で、オリンピックの会場は廃墟と化したというニュースを見て、ショックを受けた。それが私が初めてボスニア・ヘルツェゴビナという国を意識したときだった。
サラエボはかなり離れているので無理だったが、モスタールという町を訪れるツアーに参加した。そのことはまた次回にでも書くつもりだが、私が娘たちを生んで、日常生活だけを考えて暮らしていた頃、旧ユーゴスラヴィアでは、同じ民族でさえ争っていたのだと思うと、本当になんと言っていいのかわからない。
なんかまとまりのない文章になり、すみません。まだまだ勉強不足を実感しています。せめてきれいな花を見て、穏やかな気持ちになりたいです。
私は西洋史も西洋の地理も全然興味がなかったので、理解度が0なのですが(*´ω`*)。
アジアから見ると「先進国」の位置づけの国が多い欧州でも、意外に宗教や民族間での対立で内乱が多いのは謎だなあ、という気もします。宗教は平和の一助にはならないのか…??難しいですね( ;∀;)。
nakko
がしました