沖縄には、毎年来ています。23年6月は、母と次女と一緒に3泊4日のドライブ旅行、昨年5月に一人で那覇を起点にバスとモノレールでウロウロ。いつも必ず戦争遺跡と言われるところにも行くようにしています。

 一昨年は、娘の希望で旧海軍司令部壕、昨年はひめゆり平和記念資料館とハクソーリッジと呼ばれる前田高地。そして今回まず向かったのが、「対馬丸記念館」で、確かひめゆりでいろいろな資料を見ている時に、「対馬丸」のことを知りました。

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 昭和19年(1944年)、沖縄の老、幼、婦女子は県外に疎開するように指示されました。対馬丸は学童集団疎開の子どもたちをたくさん乗せて8月21日に那覇港を出港しました。これは、弱者を非難させると言うより、戦争の役に立たないものを、沖縄から追い出すことと、兵士たちの食糧確保のためでした。

 対馬丸は翌日22日夜10時過ぎ、米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃により海に沈められてしまいました。乗船者1788名(船員・兵員含む)のうち約8割の人々が海底へと消えてしまいました。

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本物の対馬丸は、今も海深く沈んだままで、引き上げられていません
 
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 再現された船内。上段に数十人の男子、下段に数十人の女子がいて、狭くて蒸し暑くて、眠るのも難しかったそうです。 

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 対馬丸が撃沈されたあと、事件について「決して語ってはいけない」と厳重な緘口令が敷かれていました。館内には、緘口令が敷かれていたことを裏付ける遺族の手紙が展示されており、「一行たりとも隣近所に知らしてはなりません。極秘です」と書いてありました。

 犠牲者の魂が迷うことなくここに帰れるように、当時の学校やふるさとの景色を背景に、犠牲者の名前を印字してありました。ここの博物館には、残された遺品はわずかしかありませんでした。犠牲者の写真は展示されていますが、12歳で亡くなっても、3歳の写真しかないというケースがたくさんありました。

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 対馬丸に乗り込んだ子どもたちのアニメーションもありました。でも最後にあった手書きの、この手紙が心に刺さりました。

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「対馬丸のこどもからあなたへ」

ときどきでいいのです
どうかわたしたちのことを思いだしてください
あなたは海に行くことがありますか?
海に行って海の水にさわりますか
その水は、私たちの眠るあの悪石島の海につながっているのです。

真っ白い雪や大きな汽車
そして真っ白いご飯にあこがれ
まるで修学旅行に行くように船に乗ったわたしたちは
アメリカの潜水艦の攻撃を受けて沈められました

炎と水
たくさんの子ども達のそして大人達の悲鳴
想像できますか?
なぜ
わたしたちはそんな目にあわなければならなかったのでしょう

わたしたちは、行きたかった
おいしいものを食べたり
思いきり遊んだり
大人になって世の中で自分の力を試したり
すてきな相手にめぐり会ったり
わたしたちは、生きたかった

なぜそれが許されなかったのでしょう
なぜ
ああ、でも海の底にいるとよく聞こえるのです
今も世界中のあちこちで子ども達が悲鳴を上げています
なぜ なぜ なぜ