杉原記念館は、1939年11月から1940年8月までリトアニアの日本領事館として実際に使われていた建物になります。当時まさにこの場所で杉原千畝は、日本政府の明確な許可を得ることなく、ソ連の弾圧や迫りくるナチスの迫害から逃れる人々に日本への経由ビザを発給する決断をしました。
 その結果、彼は2,000枚以上のビザを発給し、多くの人々の命を救いました。この偉業を称え、非営利の民間団体である杉原基金は、1999年にこの地に杉原記念館を設立しました。
sugiharahouse.comより

IMG_6197

 十数年前から訪れたかったこの家を見て、思っていたよりはるかに小さいことに驚きました。特に、残っている門と玄関までの距離が短く、リビングルームに使われていた部屋の窓もすぐそこにあるのです。

IMG_6196

 この下の写真が私が授業で使った副読本の表紙にも載っていたものでした。中央に写っている白い柱が、上の写真の「希望の門」です。これはドキュメンタリービデオの一場面をスマホで撮ったのですが、元々この写真は、杉原一家と同行していた夫人の妹さんが撮ったそうです。

IMG_6198

 その副読本の元になったのが、杉原幸子「六千人の命のビザ」1993でした。博物館に入ってすぐの部屋で、日本語字幕のあるドキュメンタリーを見ることができます。このビデオを見るのは2ユーロで、博物館の入場料は10ユーロでした。

 そうそう、この博物館に入るには、入口のところに置いてあるシューズカバーをつけなくてはなりません。

IMG_6239

 ここは1階(と言っても、半地下のようなつくりです)にある杉原千畝の事務室です。ビザ発給のスタンプや発給者リストがおいてありました。

IMG_6205

 一人に対し、これだけの文章を書かなければならないのは大変だったでしょう。それを2000人以上に発給し続けた杉原千畝の苦しさが、ドラマや映画の中に詳しく描かれていたのを思い出しました。

IMG_6207

 リストはリトアニア人の書記官の方が、タイプで作成されたようです。(でも、ここにあるのはレプリカだと思います)

IMG_6208

杉原夫妻には3人の男の子がいましたが、3男の方は幼くして亡くなっています

IMG_6206

IMG_6215

2階の居間には、夫人の幸子さんが愛用されたピアノが残っています

IMG_6216

 居間の窓には、あの写真が刷り込まれていました。1941年7月18日の早朝、杉原千畝がこの部屋から見た光景が、100人以上の人が建物の周りにいる姿だったのです。この窓から門までは数歩の距離なので、たくさんの人に囲まれたら、恐怖を感じるのではないかと思いました。

IMG_6222

 彼らはポーランドから逃れてきたユダヤ人で、杉原氏は代表と話をすると告げ、その代表たちの話を熱心に聞きました。そして悩んだ末、日本の外務省に電報を打つと、2日後帰ってきた返事は以下のものでした。

 「日本は法律によって非日本人の外国人ビザを発給する。申込者の背景、思想、渡航目的をチェックして、疑わしいことがなかったら、入国ビザや渡航ビザを発行してよい。それ以外はいかなるビザも発行してはいけない。」

IMG_6229

 7月29日朝、杉原はユダヤ人を一人一人呼び入れ、事情を確認し、それを手書きでビザに書き込みました。初日だけで121家族のビザを発行し、それからほとんど1ヶ月間ビザを書き続けました。

IMG_6237

 8月27日に外務省からの電報で、カウナスの日本領事館を閉め、ドイツ大使館に転任するよう指示されました。翌日メトロポリスホテルに移動すると、すでにユダヤ人たちがロビーに列を作っていました。それは杉原自身が、領事の行き先はメトロポリスホテルだと、掲示したためでした。

 1週間、ビザを書き続け、9月4日の朝、杉原一家はカウナス駅に向かいました。プラットホームにも多くのユダヤ人がついてきて、席についても杉原はビザを書き続け、窓から手渡したそうです。

IMG_9502

IMG_9503

 1947年に日本に戻った杉原を、外務省はクビにしました。そして「ユダヤ人からお金をもらった」というデマも広がり、外務省は杉原の功績を認めませんでしたが、彼の死後14年経った2000年に、ようやく杉原千畝に対して、政府と外務省も謝罪し、彼の功績を称えるプレートを、外務省に設置しました。

 10数年前に始めた私の杉原千畝を巡る旅も、ようやく終わりました。今、手元に残しているドラマ版「命のビザ」をもう1度見てみようと思います。

お土産に買ったポストカード
IMG_9504