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がんになっても地球旅行

病気には無縁と思ってた元バックパッカー、タイの大学で日本語教師をしていた2019年4月バンコクで肺腺癌(1A)手術。2022年6月に日本に帰国後もタイをメインに地球旅行に出かけています。

リトアニア

最後にバルト三国独立について学びました

 ヴィリニュス旧市街北にあるゲティミナス城は、13世紀に建設が始まり16世紀ごろに完成しましたが、現在は丘の上に周囲320mの城壁跡と宮殿の一部だと思われる建物、そして今は博物館になっているゲティミナス塔だけが残っています。ヴィリニュス最終日に、その丘に登りました。

 丘があるところは大きな公園になっていて、市民の憩いの場所でもあります。この不思議なドームが何かわからなかったんですが。

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公園の中を走る汽車、子どもが喜びそう・・・
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何かストーリーがありそうですが、英語じゃなかったのでわかりませんでした
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丘の上にはこんな階段をずっと登っていきました
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でも旧市街の反対側からはこんなゴンドラもありました
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川が流れているのは旧市街の北側です
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かつての宮殿の一部
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 バルト三国は1940年にソ連によって占領されました。これはソ連とナチス・ドイツが1939年8月23日に交わした「独ソ不可侵条約」の裏で秘密裏に交わされていた議定書によるもので、東ヨーロッパと中央ヨーロッパをそれぞれの勢力圏に分割するという内容でした。

 1980年代後半になっても占領は続き、またソ連は秘密協定の存在を否定しバルト三国が自発的にソ連に加わったのだと主張し続けました。そしてその協定50周年にあたる1989年8月23日、バルト三国の国民は協定の秘密議定書の公的承認とバルト三国の独立回復を要求し"人間の鎖"による独立運動「バルトの道」を行いました。

丘の上のゲティミナス塔には、その「バルトの道」の展示があります

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 1989年8月23日の19時、バルト三国の住民約200万人が手をつなぎ、タリンからリガを経てビリニュスまで人間の鎖が完成しました。バルト三国それぞれの国民運動団体が主導し、参加者は独立運動が行われる都市や村に集まるか、バルトの道が縦断する道中で人員が不足する人口が少ない地域へ車で向かいバルトの道を完成させました。

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 このデモにはエストニアから70万人、ラトビアから50万人、リトアニアから100万人が集まったとされています。

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 当時の各国の人口がエストニア157万人、ラトビア266万人、リトアニア368万人なので、本当に多くの人がこの運動に参加したことになります。

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 この下の写真は、ラトビアの首都リガの自由記念碑近くにあった「人間の鎖の足型」です。リガのウォーキングツアーのときにも、この運動のことを聞いたのですが、あらためてこの運動がバルト三国の人にとって、大きな出来事であったかを実感しました。

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 ベルリンの壁が崩壊したのは1989年11月9日です。そのニュースははっきりと覚えています。というのは、その数年前にベルリンの壁を訪れて、西側にある博物館で、その悲惨な歴史を学んだからでした。でもその3ヶ月前に、バルト三国でこの運動があったことは、今回訪れるまで全く知りませんでした。

 ちょうど結婚した翌年で、まだ子どももおらず、仕事もプライベートも大きな悩みもなく、楽しい生活を送っていました。その時に同じ地球上でこんな出来事があったのを、まったく知らずにきたことが少し情けなくなりました。

 バルト三国を訪れたのは、カウナスの杉原千畝博物館に行きたいと思ったことが理由ですが、三カ国とも落ちついた雰囲気の素敵なところだったので、写真を眺めながら、またいつか訪れたいと思っています。

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カウナスからヴィリニュスに戻って

 GW明けから、孫との同居生活が始まったのですが、ちょうど同時期にレッスンの数が増え、今月から月〜金の夜はすべて埋まり、月、火は朝と昼にも入っていて、かなり忙しい毎日です。夜7時半からのレッスンは、娘たちはもう寝る準備に入る頃で、特に問題はないのですが、朝と夕方のレッスンのときは、ちょっと気忙しいです。

 と言っても、仕事もボランティアも今まで通りこなしていて、できないのはジム通いだけだし、娘の夫くんが週2回来てくれるので、その日はジムも行っています。だから忙しくても自分の生活はある程度キープしていますが、ブログはかなり手抜き状態で、アクセスしていただいた方には申し訳ありません。

 まだリトアニアのカウナスで止まったままなので、その帰りのところから書きます。カウナスの最後の訪問地が杉原博物館で、予約した電車には少し時間があったので、カフェに入りました。久しぶりにカヌレを見つけて、ラテと一緒にちょっと休憩。

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駅のトイレは有料でしたが、クレジットカードで支払うことができました
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帰りは1等車です
でも2等車とそれほど変わらないと思いました
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でもお水がサービスで出てきました
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駅からAirbnbのアパートまでに、こんなウォールアートが
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どちらもちょっと暗い感じ・・・
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アパートに入って、エスカレーターで男性二人と一緒になりました
かごにたくさんトマトを持っていて、
「これ、畑で取ってきたから、どうぞ」と2個くれました
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次の日の朝食にいただきました

 さてリトアニア最終日は、まだ訪れていないヴィリニュスの観光地を巡ります。また夜明けの門から旧市街に入りました。

 この建物は、旧市庁舎で、前は大きな市庁舎広場です。ここに最初に市庁舎が建てられたのっは14世紀の前半で、当時のものは、ゴシック様式で、高い時計台もあったそうです。でも火災や戦争でダメージを受け、1781年にその時計台が倒れて、全面改装されたのがこの建物です。
 現在は市庁舎ではなく、芸術家教会のものとなり、コンサートや展覧会で使われています。

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 次に訪れたのがヴィリニュス大学。この地方ではクラクフ、ケーニヒスベルグに次いで、16世紀に創立された由緒ある大学です。でも帝政ロシア時代には抵抗運動の本拠地となったため、88年間も閉鎖されたそうです。現在は、2万人余りの学生が学ぶ歴史・言語学部のキャンパスです。

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 大学の敷地はかなり広く、迷路のようになっているそうです。でも残念ながら8月は大学は休暇期間のために、学生もおらず、中庭と教会を見れただけです。

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大学内の教会
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外からも中も本当に立派な造りでした
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パイプオルガンも豪華
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 まるで古い修道院や大聖堂のような建物ばかりで、中の部屋はどうなっているのだろうかと興味がわきました。こんなところで勉強するのはどんな気持ちなんでしょうか。

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 大学のすぐ近くで、早めにランチを食べました。ちゃんとリトアニア料理を食べようと思っていたのに、通りに出たテーブルで食べている人を見て、ついこれを頼んでしまいました。レバニーズですよね。

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 ヴィリニュスは、あと半日分で終わりますが、まだ少し時間がかかりそうです。

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カウナス街歩き

 カウナスはリトアニアの第2の都市で、14世紀から歴史に残っています。15世紀半ばにハンザ同盟の代表部が置かれて、商業の中心となりました。両対戦間の22年間、首都ヴィリニュスがポーランドに占領されたため、ここがリトアニアの首都でした。そのため、杉原千畝もここの日本領事館で働いていたのです。

 旧市街には古いゴシック建築が残り、新市街は並木道が貫いて、カフェやお店が立ち並んでいました。日帰りで訪れましたが、やはり一泊して、のんびりカフェに入ったり、その並木道を歩きたかったです。

 カウナス城から旧市街、新市街と歩いて、昼食を取り、駅に一番近い杉原博物館へ行き、コーヒーを飲んでから電車でヴィリニュスへ戻りました。カウナス城まではバスに乗りましたが、帰りは4kmほどをずっと歩きました。

聖ペテロ&パウロ大聖堂
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 外観の写真を撮り忘れたのですが、美しい赤レンガでできたリトアニア最大のゴシック様式の教会で、15世紀に建設されました。壁一面にフレスコ画や彫刻が飾られています。

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ここのパイプオルガンも本当に美しく
その調べをきいてみたかったです

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教会の外壁に、有名な詩人で教会の神父であった
マイロニスの墓がありました
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でもここにお墓というのが、ちょっと違和感を感じるのですが・・・

ベルク―ナスの家
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 15世紀に建てられたゴシック様式の傑作と言われています。ペルク―ナスは「雷神」の意味で、かつでここにその神殿があったそうです。そして19世紀の改修で、その像が見つかったそうですが、今はそれも紛失したとか。

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旧市街は、こんな落ち着いた町並みでした
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ヴィタウタス大公像
15世紀始めにリトアニアの最盛期を築いた大公

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 足元には支配下においたロシア、ポーランド、タタールの兵士と折れた剣を持ったドイツ騎士がいます。その国の人達は、今これを見てなんと思うんでしょうね。

町中で見かけた不思議な彫刻
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聖ミカエル教会
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ランチはリトアニア料理をたべようと
地元で人気というベルネリュ・ウジェイガへ

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アルコールではないと聞いて頼んだホームメイドアップルサイダー
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リトアニアの名物ビーツの温かいスープ
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チキンだったと思うのですが、もう忘れてしまいました
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 これだけ頼んで15.8ユーロだったので、コスパはよく、美味しかったです。でもやはり量が多目で、一人だと持て余しました。それに他に美味しそうな料理もたくさんあったので、4人くらいで来て、分け合って食べられたらいいのにと思いました。

 カウナスは、歩いて回れるほどの町で、とてもいい雰囲気でした。ちょっと雨が降ったので、最後はカフェに入りましたが、もっとゆっくり15世紀の建物を見たかったです。

 杉原博物館で出会った日本人夫婦と駅で会い、少し話しました。リトアニアではここしか日本人を見かけなかったので、やはり杉原千畝の功績を辿って日本人旅行者が来るのだと実感しました。

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カウナス城

 孫との生活は時間との闘いです。今週から仕事もフルに再開したので、アップアップしながら、新生児ってこんなに大変だったのかと35年も前の記憶を辿っています。

 リトアニアの旅行記がまだ残っているので、なんとか書いていこうと思います。でも今日はたいして中身のない内容になり、すみません。

 先に杉原千畝博物館について書きましたが、カウナスの町はそれほど大きくないので、朝駅に着いて、そこからバスで一番遠いカウナス城に向かいました。

 ここは13世紀にドイツ騎士団の侵略を防ぐために造られたお城だそうです。カウナスの町を流れるネムナス川が、ちょうどリトアニアと騎士団の国境となっていたために、何度もここで戦闘が行われました。1363年に占領されて破壊されたものの、15世紀にヴィタウタス大公の時代に再建されました。

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 1階から4階と地下1階があり、入口のある1階に一般的な説明がありました。入場料は4ユーロです。

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まず地下1階におりていきました

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ここは18世紀には監獄として使われていました
その当時の拷問道具です

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3階が展示室です
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4階からは周りの景色を堪能できます
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これは市庁舎だそうです
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この右側は聖ゲルギオ教会
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ヴィタウタス大公像
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ここはカウナスの大きな文字があり
私もここで自撮りをしました
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 ここから市内を歩いて、昼食後、杉原千畝博物館へ行きました。


ついに最大目的地へ、杉原聖地巡り②


 杉原記念館は、1939年11月から1940年8月までリトアニアの日本領事館として実際に使われていた建物になります。当時まさにこの場所で杉原千畝は、日本政府の明確な許可を得ることなく、ソ連の弾圧や迫りくるナチスの迫害から逃れる人々に日本への経由ビザを発給する決断をしました。
 その結果、彼は2,000枚以上のビザを発給し、多くの人々の命を救いました。この偉業を称え、非営利の民間団体である杉原基金は、1999年にこの地に杉原記念館を設立しました。
sugiharahouse.comより

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 十数年前から訪れたかったこの家を見て、思っていたよりはるかに小さいことに驚きました。特に、残っている門と玄関までの距離が短く、リビングルームに使われていた部屋の窓もすぐそこにあるのです。

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 この下の写真が私が授業で使った副読本の表紙にも載っていたものでした。中央に写っている白い柱が、上の写真の「希望の門」です。これはドキュメンタリービデオの一場面をスマホで撮ったのですが、元々この写真は、杉原一家と同行していた夫人の妹さんが撮ったそうです。

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 その副読本の元になったのが、杉原幸子「六千人の命のビザ」1993でした。博物館に入ってすぐの部屋で、日本語字幕のあるドキュメンタリーを見ることができます。このビデオを見るのは2ユーロで、博物館の入場料は10ユーロでした。

 そうそう、この博物館に入るには、入口のところに置いてあるシューズカバーをつけなくてはなりません。

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 ここは1階(と言っても、半地下のようなつくりです)にある杉原千畝の事務室です。ビザ発給のスタンプや発給者リストがおいてありました。

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 一人に対し、これだけの文章を書かなければならないのは大変だったでしょう。それを2000人以上に発給し続けた杉原千畝の苦しさが、ドラマや映画の中に詳しく描かれていたのを思い出しました。

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 リストはリトアニア人の書記官の方が、タイプで作成されたようです。(でも、ここにあるのはレプリカだと思います)

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杉原夫妻には3人の男の子がいましたが、3男の方は幼くして亡くなっています

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2階の居間には、夫人の幸子さんが愛用されたピアノが残っています

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 居間の窓には、あの写真が刷り込まれていました。1941年7月18日の早朝、杉原千畝がこの部屋から見た光景が、100人以上の人が建物の周りにいる姿だったのです。この窓から門までは数歩の距離なので、たくさんの人に囲まれたら、恐怖を感じるのではないかと思いました。

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 彼らはポーランドから逃れてきたユダヤ人で、杉原氏は代表と話をすると告げ、その代表たちの話を熱心に聞きました。そして悩んだ末、日本の外務省に電報を打つと、2日後帰ってきた返事は以下のものでした。

 「日本は法律によって非日本人の外国人ビザを発給する。申込者の背景、思想、渡航目的をチェックして、疑わしいことがなかったら、入国ビザや渡航ビザを発行してよい。それ以外はいかなるビザも発行してはいけない。」

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 7月29日朝、杉原はユダヤ人を一人一人呼び入れ、事情を確認し、それを手書きでビザに書き込みました。初日だけで121家族のビザを発行し、それからほとんど1ヶ月間ビザを書き続けました。

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 8月27日に外務省からの電報で、カウナスの日本領事館を閉め、ドイツ大使館に転任するよう指示されました。翌日メトロポリスホテルに移動すると、すでにユダヤ人たちがロビーに列を作っていました。それは杉原自身が、領事の行き先はメトロポリスホテルだと、掲示したためでした。

 1週間、ビザを書き続け、9月4日の朝、杉原一家はカウナス駅に向かいました。プラットホームにも多くのユダヤ人がついてきて、席についても杉原はビザを書き続け、窓から手渡したそうです。

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 1947年に日本に戻った杉原を、外務省はクビにしました。そして「ユダヤ人からお金をもらった」というデマも広がり、外務省は杉原の功績を認めませんでしたが、彼の死後14年経った2000年に、ようやく杉原千畝に対して、政府と外務省も謝罪し、彼の功績を称えるプレートを、外務省に設置しました。

 10数年前に始めた私の杉原千畝を巡る旅も、ようやく終わりました。今、手元に残しているドラマ版「命のビザ」をもう1度見てみようと思います。

お土産に買ったポストカード
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電車でヴィルニュスからカウナスへ、杉原聖地めぐり①


 ヴィルニュスの3日目は、いよいよこの旅行の最大の目的地であるカウナスへ向かいました。そう「杉原記念館」のあるカウナスです。最初はカウナスで一泊することも考えましたが、電車で1時間ほどの距離だったので、日帰りにしました。
 
ヴィリニュス駅
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 インフォーメーションで「カウナスへの切符を買いたい」と言うと、このキオスクの機械で買えと言われました。英語もあるので、使い方はとても簡単でした。

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 時間で選ぶと、行きは8時10発の2等車、帰りは16時27分発の1等車になりました。でも値段は3ユーロ弱しか違わないんです。

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 ホールにはこんなVIP loungeがありました。どの切符で入れるんでしょうか。でも3ユーロ違いの1等切符で入れるとは思えません。

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ホームへ向かいます。飛行場マークがあったので、電車でも行けるということですね。

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こんなカッコいい電車でした
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2等車でもこんなにゆったりしています
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 1時間ちょっとの旅でカウナス駅に着きました。さあここで、目指すべきものが・・・。写真の左下です。

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杉原千畝のプレートです
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 以前にも書きましたが、私が杉原千畝のことを知ったのは、英語の副教材でした。それをきっかけに杉原千畝について調べ、彼の出身地の岐阜県八百津町にある人道の丘と杉原千畝記念館に行きました。そしてちょうどその頃に作られたテレビドラマを授業の教材に使い、2015年に公開された映画も見ました。

 そのドラマと映画でとても印象的だったのが、このホームです。ここに何百人もユダヤ人が詰めかけ、杉原千畝は最後の最後までビザを書き続けました。

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 「杉原記念館」へ行く前に、もう1ヵ所行きたい場所がありました。日本政府から領事館を閉鎖しろと命令され、領事館を出て、最後に数日間滞在した「メトロポリスホテル」です。ここでもずっとビザを書き続けました。

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折り鶴が舞うようなデザインの杉原千畝のモニュメント
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ホテルの壁に埋められたプレート
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 実は正面から少し覗いても中の様子もわからず、人の気配もありません。でもホテルの周りをぐるりと歩いてみると、裏口のドアが開いていました。そこで意を決して突入。

 すぐに小さなロビーがあり、杉原千畝に関連するものが飾られていました。後で調べてみると、今ここは、それほど高いホテルではなく、シングルだと1万円ほどで泊まれそうです。そして宿帳が残っていないために、杉原が泊まった部屋はわからないそうです。

左は杉原直筆のメッセージ
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 写真を撮っている間、ロビーには誰も来ませんでした。ホテルの人が来たら、「日本人です」と説明して、勝手に入ったことをお詫びしようと思ったのですが、その機会はなく、また裏口から出ていきました。


ビリニュスのKGB博物館

 ラトビアの旧KGB本部で衝撃を受けた私は、リトアニアのKGB博物館にも行かなくてはと思っていました。ここは、旧市街の中心から1.5kmほど離れたところにあり、直通のバスもないので、歩いていきました。

 ビリニュスの旧KGB本部も民間業者によってKGB博物館(ジェノサイド犠牲者の博物館)として公開されています。正式名は「占領と解放闘争の博物館」というそうです。1944年から1991年までソ連の国家警察、秘密諜報機関KGBが行った盗聴や監禁の様子、拷問、処刑などに使われた部屋が保存、再現されていて、当時のKGBの所業を目の当たりにすることができます。

 ラトビア、リガの旧KGB本部は、予約制でツアーじゃないと入れなかったのですが、ここは開館時間であれば、いつでも見学できます。大人6ユーロの入館料でした。

外観はビリニュスの風景に融けこむような建物でした
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入口でもらったパンフレットです
地下1階、地上3階建てで、見学できるところは限られています

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KGBのオフィス
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奥のパイプのベンチのようなものがベッドですが、
横幅がとても狭いです

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本当に狭い独房
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シャワー室
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トイレ
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中庭も本当に狭い空間でした

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処刑された人たちの写真が残っていました

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この絵は囚人によって描かれたものだそうです

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ここから地下へ向かいます
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処刑場のあとです

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処刑までの様子を描いたビデオが流されていました

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  ここでは1000人以上の収容者たちが処刑されたそうです。処刑当日、リトアニア人たちは有無も言わさず次々と銃殺され、遺体は小さな窓から外へと運ばれ、ビリニュス郊外の集団墓地へ埋葬されていました。

モニターの横に、銃弾跡が残っています
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 リトアニアは第2次世界対戦時にはナチスから、戦後はソ連の支配下で、多くの人が殺されました。ヴィリニュスの前に立ち寄った十字架の丘は、そんなリトアニアの人たちが平和的な抵抗の象徴として十字架を建て続けた場所です。

 私は高校時代、「世界史」が大好きで、大国以外の国の歴史にも惹かれました。教科書以外にも、参考書や資料集を読みあさったのですが、バルト三国に関する記憶がありません。1991年の独立のときには、もう長女が産まれていて、東ヨーロッパで平和を求める闘いが行われていたことも知りませんでした。

 もちろん今ほど情報化社会でなかったのは事実ですが、もっと目を向けるべきだったなと思います。「ベルリンの壁」崩壊は大きなニュースで、実際、崩壊前のベルリンの壁を訪れたこともあり、そのニュースは必死で見た記憶があります。でもその後の旧ソ連の国々について、あまり知ろうとしなかったのです。

 ふと今の高校の世界史の教科書には、バルト三国のことは載っているのだろうかと気になりました。ただそれよりも、今の若い人には、世界情勢を客観的に見つめる力を養ってほしいと思います。



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