この前なぜタイ人は「キンカーオルヤン(ご飯食べた)?」が挨拶なのかというテーマで書いたが、その後自分のプレゼンテーションのためにもう少し調べてみた。中国や韓国でもそう挨拶すると聞いたことはあったが、実は東南アジアのほとんどの国は同じ挨拶があったのだ。それを「味の素」のページで見つけた。
ここにはタイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、カンボジアが挙げられている。そしてネットで検索した中に、インドでも同様の挨拶をすると、国際海外協力隊の方が書いておられた。そしてこの国々に共通している点が、「ご飯食べた?」の挨拶の理由ではないかと考えた。
アジアの国の主食は米だ。だからご飯=米であり、その米が豊富にあるかどうかが生活の豊かさを表す。米を食べることはアジア人にとって生活の中心なのだ。そしてアジアの国はほとんどが戦争被害や自然災害の被害にあっている。その度に食料不足が起こり、自分も周りの人間も毎日ご飯を食べているかが大問題になる。だから毎日周りの人間に「ちゃんとご飯食べた?」と聞くことになったのではないだろうか。
そしてこの理由は日本にも当てはまるのに、東南アジア、中国、韓国で使われている挨拶を日本人は使わなかったのだろうか。でも前回この内容で書いたときに、コメントをいただいた中で、子どもの頃、新潟県の親戚の方から「ご飯食べたか」と聞かれたことがある、そしてまた茨城県出身の知人の方からも同様の挨拶があったという話を教えていただいた。ということは、やはり日本でも使われていた場所があったのだ。でも私自身は、挨拶として「ご飯食べた?」と聞かれた記憶がない。
タイ人にも聞いてみた。と言っても2、3人しかいないのだが。20代後半と30代後半の女性は、親しい友人になら「ご飯食べた?」を挨拶にするが、目上の人やあまり親しくない人には「サワッディカー」としか言わないと言っていた。20代半ばの教え子の男性は、やはり親しい人には使うが、会社の上司の日本人には絶対使わないと言っていた。でも彼は学生時代、私に「先生ご飯食べましたか」とよく話しかけてくれたのだ。そこで、どうしてそう言うのかと聞くと「นึกถึงอาจารย์(先生のことを思って)」と答えてくれた。
このนึกถึงと言う言葉は、「思う」より「想う」の方が合っているように思う。「思う」は単に頭や心で考えるときに使い「想う」はより感情を込めたいときに使うことが多いからだ。教え子が私を気遣って「ご飯食べましたか」と聞いてくれたのは、上の味の素のPDFに書かれていることと共通している。
日本でこの挨拶が使われていたのは、きっと人間関係がもっと密接な狭い社会であった頃だと思う。例えばその地域に住む人が皆顔見知りであれば、「ご飯食べた?」(ご飯食べていつも通りにしてる?)と声を掛け合うのが自然なんだろうと思う。
「こんにちは」や「สวัสดี」は相手が誰であっても使うことができて、上下関係、親密度も考えなくても良いので便利な挨拶だ。でも何の感情も入れずに習慣として言葉にしているような気がする。もちろん「キンカーオルヤン」も本当にご飯を食べたかどうかを知りたいわけではないだろうから、単に習慣にすぎないだろう。でも元の意味合いは、他人への気遣いから出た思いやりのある挨拶だったのだと思った。

ここにはタイ、ベトナム、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、カンボジアが挙げられている。そしてネットで検索した中に、インドでも同様の挨拶をすると、国際海外協力隊の方が書いておられた。そしてこの国々に共通している点が、「ご飯食べた?」の挨拶の理由ではないかと考えた。
アジアの国の主食は米だ。だからご飯=米であり、その米が豊富にあるかどうかが生活の豊かさを表す。米を食べることはアジア人にとって生活の中心なのだ。そしてアジアの国はほとんどが戦争被害や自然災害の被害にあっている。その度に食料不足が起こり、自分も周りの人間も毎日ご飯を食べているかが大問題になる。だから毎日周りの人間に「ちゃんとご飯食べた?」と聞くことになったのではないだろうか。
そしてこの理由は日本にも当てはまるのに、東南アジア、中国、韓国で使われている挨拶を日本人は使わなかったのだろうか。でも前回この内容で書いたときに、コメントをいただいた中で、子どもの頃、新潟県の親戚の方から「ご飯食べたか」と聞かれたことがある、そしてまた茨城県出身の知人の方からも同様の挨拶があったという話を教えていただいた。ということは、やはり日本でも使われていた場所があったのだ。でも私自身は、挨拶として「ご飯食べた?」と聞かれた記憶がない。
タイ人にも聞いてみた。と言っても2、3人しかいないのだが。20代後半と30代後半の女性は、親しい友人になら「ご飯食べた?」を挨拶にするが、目上の人やあまり親しくない人には「サワッディカー」としか言わないと言っていた。20代半ばの教え子の男性は、やはり親しい人には使うが、会社の上司の日本人には絶対使わないと言っていた。でも彼は学生時代、私に「先生ご飯食べましたか」とよく話しかけてくれたのだ。そこで、どうしてそう言うのかと聞くと「นึกถึงอาจารย์(先生のことを思って)」と答えてくれた。
このนึกถึงと言う言葉は、「思う」より「想う」の方が合っているように思う。「思う」は単に頭や心で考えるときに使い「想う」はより感情を込めたいときに使うことが多いからだ。教え子が私を気遣って「ご飯食べましたか」と聞いてくれたのは、上の味の素のPDFに書かれていることと共通している。
「ご飯食べた?」「うん、食べたよ。」
東南アジアの国々で普通に交わされている挨拶です。
それは日本での「元気?」「うん、元気だよ。」と同じ意味合いで使われています。
まるでわが子を思いやる父や母のように、相手の身体を気づかうやさしさがつまった挨拶。
食を通じて人を思いやる気持ちは、どの国も同じなのかもしれません。
日本でこの挨拶が使われていたのは、きっと人間関係がもっと密接な狭い社会であった頃だと思う。例えばその地域に住む人が皆顔見知りであれば、「ご飯食べた?」(ご飯食べていつも通りにしてる?)と声を掛け合うのが自然なんだろうと思う。
「こんにちは」や「สวัสดี」は相手が誰であっても使うことができて、上下関係、親密度も考えなくても良いので便利な挨拶だ。でも何の感情も入れずに習慣として言葉にしているような気がする。もちろん「キンカーオルヤン」も本当にご飯を食べたかどうかを知りたいわけではないだろうから、単に習慣にすぎないだろう。でも元の意味合いは、他人への気遣いから出た思いやりのある挨拶だったのだと思った。
今日のお昼は市場で買ってきたバミー30バーツ
緑色と黄色で味にあまり違いを感じない


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