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がんになっても地球旅行

病気には無縁と思ってた元バックパッカー、タイの大学で日本語教師をしていた2019年4月バンコクで肺腺癌(1A)手術。2022年6月に日本に帰国後もタイをメインに地球旅行に出かけています。

ミャンマー

ミャンマー国軍が海外在住者からも税金を取る

 今回も、新聞で見つけたミャンマーのニュースだ。 
 ミャンマー国軍が在日ミャンマー人から所得税納付を義務付けたと発表した。クーデター後、ミャンマーは深刻な外貨不足に陥っており、国軍は在外労働者を「外貨供給源」にしようとしているらしい。

 発表によると、在日ミャンマー人労働者の平均月収を20万円として、2%の4000円を所得税額にし、2000円を控除した残り2000円を毎月課税するとのことだ。月収20万円以下の労働者は月1000円に減額されるが、今年の10月までさかのぼって課税される。

 日本のミャンマー大使館は未納に対する罰則は公表していないそうだが、ミャンマー国営紙によると、シンガポールや韓国ではパスポートの更新時に納税証明書の提出を求めるそうだ。つまり納税していなければ、パスポートの更新ができないということか。

 他の国でも同条件かもしれないが、日本でもっとお金を稼ぐことができると期待して来日したミャンマー人は多いと思う。それが思ったよりも手取りは少なく、しかも年間24,000円も全く支持していない国軍に取られるとなれば、パスポートなどいらないと不法滞在者が増えていくのではないかと懸念される。

 どんどんアジアから世界から取り残されていくようなミャンマーはどうなってしまうのだろう。ずっと書き続けているが、民主主義の世界が戻ることを願ってやまない。

 話は変わるが、昨日は予定外に「子ども食堂」のボランティアへでかけた。先日のクリスマスパーティの日に、食堂の責任者の方が、「今度の水曜日は、私一人なんよ」とおっしゃったのだ。いつも来ている高校生の子も無理らしい。それで急遽手伝いに行くことにした。

 行ってみると、最初は5人と聞いていた子どもも3人で、ボランティアも5時頃にもう一人来てくれることになったとのこと。でも責任者の方は、いろいろ食材の整理をされていたので、3時から4時半頃まで一人で料理をした。

スパゲティカルボナーラ、ポテトサラダ(人参、キューリ、りんご)トマト添
ナゲット、フライドポテト(この2品は冷凍食材)、鮭のおにぎり

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 全員でも6人しかいないので、みんなで一緒に食べることにした。いつもは、子どもたちの部屋には、高校生や大学生のボランティアの子だけしか座らないが、昨日はテーブルをくっつけて、全員で顔を見ながら食べることにした。

 5年生の女の子が言う。「こんな風に食べるの初めてでうれしい!」彼女はちょっと食が細い子で、しかも野菜の好き嫌いも多く、いつも最後までお皿を眺めながら悩んでいることが多い。でも昨日は、ずっと楽しそうにおしゃべりをしながら、気づくとお皿は空っぽになっていた。
 「〇〇ちゃん、すごーい。今日は全部食べたね!」というと、「うん、おいしかったよ」と笑顔で答えてくれた。

 やはり食卓を囲んで、おしゃべりしながら食べることは大切だ。この子ども食堂に来る子たちの家は、食べるものがないほど困っているわけではない。でも両親とも遅くまで働いていることも多く、家族の団らんで食事をすることが少ないのだ。ずっとおしゃべりがとまらなかったその子を見ながら、今年最後のボランティアに来て良かったと思った。




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2017年ヤンゴン④市内中心のスーレパヤーとスーチーさんの家

 今日はとんでもなく寒い。実は昨夜からかなり寒かった。寒すぎて布団に入っても眠れず、1時間ほど悶々としたあと、布団乾燥機をセットして布団に潜り込んだ。20分ほどでかなり暑くなってきたので、ようやくうとうとすることができた。でも今朝も寒くて目が覚めて、そのまま眠れなかった。もう朝のランニングも断念。やはり本格的な冬はつらい。早くタイへ行きたい・・・。

 泣き言はここまでにして、2017ヤンゴンシリーズ最後。写真はヤンゴン到着日の夜と、最終日の空港へ向かう途中なのだが、このどちらの場所も印象的なところだった。

 ヤンゴンの街の中心にあるのはスーレパヤー。「スーレ」はパーリ語で「聖髪」の」意味。夜はライトアップされるので、昼でも夜でも人々が立ち寄ってお参りしている。

高さ46mの仏塔 
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 ここで男性に話しかけられた。そして何曜日生まれかと聞かれ、「覚えてない」と答えるとその人がスマホで調べてくれた。それ以来覚えているが、私は金曜日生まれだった。そして彼は、こんな風にお参りをするのだと教えてくれた。

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 最終日、お昼ごろに急に雨が降ってきたので、太陽に輝くスーレパヤーの写真は撮れなかった。
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 スーレパヤーの南側にはマハバンドゥーラ公園があり、その真中にこの独立記念碑があった。
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 ホテルから空港はホテルで頼んだタクシーで向かうことにした。スーレパヤーからはシャトルバスも出ているのだが、タクシーにしたのは、中心から8kmほど離れたインヤー湖のほとりにある「アウンサン・スーチー」さんの家を見たかったから。だからタクシーの運転手には、その前で少し停めてほしいとお願いした。というよりホテルの人にそう説明してもらった。

 私が訪れた2017年は、アウンサン・スーチーさんの率いるNLDが2016年11月の総選挙で圧勝し、事実上ミャンマーの指導者となられていた頃だ。だからこの当時はこの屋敷前は、多くの人たちのフォトスポットとなっていたらしい。

 2020年11月の選挙にもNLDが圧勝したにもかかわらず、2021年2月1日にミャンマー国軍が起こしたクーデターで、スーチーさんは拘束され、自宅軟禁、投獄、そして今年の7月からまた自宅軟禁の状態になったそうだ。だからこの写真の奥にある館におられるのだと思う。

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上に掲げられているのは、スーチーさんの父「アウンサン将軍」の写真

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 選挙で大敗した後にクーデターを起こしてミャンマー国軍が、いまだに政権を握っているのが信じられない。スーチーさんはもう78歳なので、あらためて政治の舞台に戻ってこられる機会がくるのかわからない。何度も書いているが、本当にミャンマーに民主主義が戻ってくることを願わずにいられない。
 


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2017年ヤンゴン③一番有名なお寺、シュエダゴォンパゴダ

 私が初めてミャンマーに行ったのは、1980年代後半なので、40年近く前のことになる。たぶん実家には当時の写真が残っているのだろうが、長い間見ていない。だからミャンマーで一番有名なシュエダゴォンパヤーのことも全く覚えていなかった。

 シュエダゴォンパヤーは2600年前にある兄弟が、インドで仏陀と出会って8本の整髪をもらい、紀元前588年にこの地に奉納したのが起源だと言われている。それ以降何度も地震に会いながら拡張され、15世紀中期にパゴーの女王シンソープによって完成され、60以上の大小の塔に囲まれた大仏塔になった。

 この黄金の仏塔は高さ99.4m、基底部の周辺が433m、使われている金箔の数8688枚。そして塔の最頂部には1個76カラットのダイヤモンドをはじめ合計5451個のダイヤモンドと1383個のルビーやヒスイなどがちりばめられているそうだ。しかもこれがすべて寄進によるものだということで、ミャンマー人の信仰心の深さに圧倒される。

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 一応「必見スポット」らしいところの写真を撮っていたので、名前がわかるところだけでもあげていこう。

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ターヤーワディー王の鐘
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 下の写真は、瞑想で賢者になった方の像らしい。以前は好物のタバコを供えると願いが叶うと言われていたが、全面禁煙で像もガラスで仕切られて直接お供えできないそうだ。

ボー・ミン・ガウン像
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仏足跡
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金曜日生まれの人のための仏像
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ボー・ボー・ヂー像
お参りしているミャンマー人の前にある石を軽々持ちあげられると
願いが叶うらしい

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 ヤンゴンで一番有名な場所でも、写真を見る限り人が少ない。でもヤンゴンの街はどこでもバンコクに比べるとはるかに人は少なかった。外国人もそれほど多くはなかった。このシュエダゴォンパヤーは、今も同じ黄金色の輝きを放っているのだろうか。


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2017年ヤンゴン② 寝仏のあるチャウターヂー・パヤー

 今日も日中も10度を超えない寒さ。しかも驚いたのは、ニュースで21日から22日にかけて九州に大雪が降るとのこと。ちょうど朝福岡の友人から、昨日から急に寒くなりましたというラインが入ったばかり。実は1月にまた娘と母の3人で、鹿児島に行く予定を立てているのだが、まさかその頃に寒波ということにならなければいいけれど。

 今日のブログは2017年ヤンゴンの続きだ。たった2泊なので、本当にメインの観光地にしっか行っていないが、写真を見ていると少しずつ思い出してきた。

2日目の朝、外に出ると托鉢で歩くお坊さんたちを見かけた
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 「ビルマの竪琴」の寝仏は、ヤンゴンから70km離れたパゴーにあるシュエターリャウン寝仏だそうだ。そこまで行く時間はなかったので、ヤンゴン市内にある寝仏を見に行った。ここの寝仏は全長70m、高さ17mとパゴーの寝仏とほぼ同じ大きさらしい。

チャウターヂー・パヤー
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たくさんのミャンマー人がお参りに来られていた

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足の裏に描かれた黄金の仏教宇宙観図
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タイと同じように、お金を支払い徳を積むために鳥を放つ
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魚も川に放つ
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 ここから、ヤンゴン最大のパゴダであるシュエダゴォンパヤーへ行くつもりだった。近くのバス停へ行ってみたが、どのバスに乗るのかわからない。でもシュエダゴォンパヤーを知らないヤンゴン人はいないはずと思い、目の前にいた男性に聞いてみた。彼はすぐにバスの番号を教えてくれ、私がそのバスに乗るのを見届け、その上一緒に乗る周りの人に、「この外国人はシュエダゴォンパヤーで降りるから」と声をかけてくれていた。おかげでパゴダの近くのバス停では、周りの人がみんな私に声をかけてくれ、しかも「あそこの道をまっすぐ行くんだよ」と教えてくれた。

 街を歩きながら、数回道や乗るバスを尋ねた。全員が英語を話すわけではないが、ミャンマー語でも身振り手振りで教えてくれようとした。押しつけがましいこともなく、本当に親切な気持ちが伝わってきた。
 そんな優しいヤンゴンの人たちが、早く以前の生活を取り戻せることを心から祈りたい。


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2017年のヤンゴン

 今日の大阪は一気に冬到来となった。これまで数日間かなり暖かな日が多く、朝のランニングも再開したが、それほど苦痛ではなかった。でも今朝は本当につらかった。朝7時前の気温は1度だったようで、向かい風が骨までしみた。日中も10度までいかなかったようだ。いよいよタイに逃げたくなる。

 昨日ミャンマーのことを書いたので、ヤンゴンに行った時の写真を探してみた。その頃はまだカメラを使っていたので、外付けハードディスクの中に残っていた。

 当時の資料も探してみると、ちゃんと残っていた。何とe-ticketの控えまで出てきて、この旅はJALのマイレージを利用したことがわかった。でも一番覚えているのは、行くときに頭を強打したこと。授業を終えてカートを引きながらMRTシーロム駅近くでソンテウから降り、ガタガタの歩道を歩いていた。上を見ていなかったので、柱の横に出ていた看板か何かに、頭を思いっきりぶつけてしまったのだ。翌日ヤンゴンの宿で目が覚めたときは、ほっとした。万が一目が覚めず、「この世からおさらば」とかにならなくてよかった。

 前置きが長くなったが、今日の本文は中身はあまりない。ヤンゴンの街を歩き、撮った街並みの写真だ。

 まずはJunction Cityという大きなショッピングモール。ヤンゴンにもこんな立派なショッピングモールがあることに驚いた。

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子どもたちの遊び場もあった
 今はどうなっているのだろう

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大阪王将はどうなったのだろう
Google Mapで見ても出てこなかった
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カメラを向けるとおどけたポーズをしてくれた少年
元気でいてくれるといいな
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社名も電話もそのまま残っている軽トラが走っていた

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 イギリス統治下にあった時代に、ヤンゴンにはたくさんのビクトリア朝の建物がたてられている。そしてそのいくつかはヤンゴン市文化遺産に指定されている。

 もうずいぶん前のことなので、写真の場所もはっきりわからない。名前を入れているのは、地図に写真が載っているところで、文化遺産には*をつけた。

ヤンゴン総合病院

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*Yagon Division Office Complex
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*Custom House
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*Yangon Division Court
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*Myanmar Port Authority
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City Hall
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 ところどころ写っている地元の人たちは、ゆったりしているように見える。実際このころは、観光客もそれほど多くなく、のんびりした町だった。

外でタイプ打ちをしているおじさん
今も仕事を続けておられるだろうか
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 ミャンマーに民主主義が戻ってきたら、気楽に渡航できるようになったら、またヤンゴンへ行きたい。もう1度ゆっくりあの街を歩いてみたいと思う。
 


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クライストチャーチのミャンマーレストランで、ミャンマーを想う

 ニュージーランド旅行の初日はクライストチャーチだった。オークランドから国内線に乗り継ぎ、クライストチャーチ空港で娘と落ち合った。そして親子3人の最初の夕食は、娘が選んだミャンマー料理だった。

 娘が選んだのはチキンカレーと魚のハーブ焼き、そして私がお茶のサラダを選んだ。

Le Pet Thoke (Tea Salad) 14.5$
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 このサラダが最初に来て、チキンと魚が来たときは、3人ともお腹ペコペコで、写真を撮ることも忘れて食べてしまった。チキンカレーも魚も、ちょっとタイ料理にも似た感じがあり、私には目新しさはなかった。

 ミャンマーには、大昔、独身時代に初めて行った。バンコクから飛行機で飛んだが、貧しく物がないことに驚いた。でも出会った人はみんなとても親切で、とても居心地がよかったことを覚えている。

 2回目は、バンコクで働き始めた年の9月だった。その時は週末だけでヤンゴンに2泊した。ずいぶん豊かになったヤンゴンに驚いたけれど、やはり街の人は優しかった。そのときに始めたお茶のサラダを食べた。ちょっと塩辛かったけれど、美味しくて気に入って、お土産に買ってバンコクの家で少しずつ食べた。

その時、レストランで食べたお茶サラダ
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 3回目はがんが発覚する直前の年末、長女とヤンゴンの空港で待ち合わせて、4泊5日の旅。やはり出会った人は親切だった。

 3回の旅でお世話になった人々は、今どうされているのだろう。9月まで日本語を教えていたミャンマー人の生徒から、普通の村でさえ政府軍から攻撃を受けていると聞いた。ミャンマーから民主主義が失われてもうすぐ3年になる。当時はタイでも日本でもミャンマーのニュースを見聞きすることがあったが、今はネット上にもほとんど見られない。

 その後のウクライナとイスラエルの戦争も、悲惨さにいたたまれなくなるが、たぶんミャンマーでも同様に苦しんでいる人がたくさんいるはずだ。でもその情報は入ってこず、時折ミャンマーは忘れられているのではないかと感じる。

 私も何もしていない。技能実習生だったミャンマー人の生徒がいなくなってから、ミャンマーについて考えることも減った。でもニュージーランドの初日に、家族でミャンマー料理を食べたことは、私にもう1度考える機会をくれた。



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ミャンマーでは田舎の村でも軍に攻撃されている

 日本語教室に来ていたミャンマー人の男性から、ときどきミャンマーの様子を聞いていた。難しい内容になると、彼も日本語で説明できなくて、彼の話を100%理解できたとは言えない。でもかなり衝撃的なことを彼の口から聞いていた。

 彼の家は、ヤンゴンから250kmほど北にある小さな村だそうだ。名前を聞いたが覚えられず、Google mapに入力してもらって、その場所がわかった。電車も通っていないところなので、ヤンゴンまでも半日かかるそうだ。そんな田舎の村なのに、政府軍からの攻撃を受け、村の多くの家が被害を受けたそうだ。

 そして彼は友人から送られてきたという写真を見せてくれた。

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 これらの写真の家は、普通の人が暮らす普通の家だ。村はそれほど裕福でもなく、写真を見ても質素な生活をしていることがうかがい知れる。でもなぜそんな田舎の村が政府軍から攻撃を受けたのだろう。

 「政府に反対する人が、この村にいると言われたんです。」つまり政府への反乱グループの人がこの村にいると判断されたってことか・・・。でもそれだけで、まったく罪もない人の家に銃弾や爆弾を落とすというのか。

 そしてもうひとつの写真は、もっとショッキングだった。
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 Google mapで見ると、この村は大きな川沿いにある。そのためにこの村へ行くためには橋を渡らなければならない。その橋が破壊されている写真なのだ。橋を使えないと、物資の輸送ができないということで、この村は孤立してしまう。ただ船も使えるそうだが、やはりそれだけでは限界があるとのことだった。

 ミャンマー軍がクーデターを起こしたのは、2021年2月。バンコクでは、年末に起こったコロナのクラスターのため、2021年から完全に自宅生活になっていた頃だった。コロナのニュースばかりの中でも、ミャンマーのニュースにはタイでも大きく取り上げられた。でも、去年日本に帰るころには、タイでも日本でも、ミャンマーのニュースはほとんど見かけなくなった。

 私も頭の中からミャンマーのことが消えかけていた。日常生活の中にミャンマーに関することが全くなくなっていた。でも今年の5月に日本語教室で彼と出会い、確か6月にこの写真を見せてくれた。でもまだ彼の説明が完全に理解できていないと思っていたので、まだブログには書いていなかった。

 彼が日本に来たのは、去年の秋だと言っていた。だからこの写真は、それ以降のことだと思う。つまり1年以内に政府軍の攻撃があったということだ。

 もっと彼からミャンマーのことを聞いておけばよかった。そしてそれを私のできる方法で、周りに伝えるべきだった。

 ミャンマーを訪れた3回の旅は、どれも楽しくミャンマー人のやさしさに触れた旅だった。もう1度そんな旅ができる日が来ることを待ちながら、何か今自分ができることを探せたらいいなと思う。


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